<< 作成日時 : 2008/06/20 22:27 >>
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[篆額]恩光無邊 [碑陽南向行十三字] 明治戊辰悲徳川宗家之哀廢慷 慨赴難者水戸藩士中不下數百 人而 皇恩洪大録宗家後焉遺靈亦可以 瞑矣茲擧其姓名録于碑背云尓 昭和九年甲戌秋 朝比奈知泉撰 室田義文篆額 [碑陰] 殉難者 (氏名省略) 世話人 戸祭 勝壽 多治見國司 根本 良顯 前川盈一郎 後 援 室田 義文 金原盤尚鐫
[副碑] 由来碑 尊王思想の志厚い水戸藩主徳川光圀は、明暦三年(一六五七)『大日本史』の編纂に着手し、その後、百三十余名の学者などが携わった。第六代藩主保治の時、半知借上をしても窮迫化の藩財政面から編纂継続の是非をめぐり、彰考館史局内部では、立原総裁派と藤田幽谷派が対立し、立原派は去ったが、明治三十九年(一九〇六)に四部三九七巻が完成した。 幕末にいたり、第九代藩主徳川斉昭、藤田幽谷その子東湖、会沢正志斎らに代表される後期水戸学は、内圧と外圧の現実の問題を深刻に受け止め、大義名分論に基づき尊王の思想に攘夷論を附加し、独特の学風にしたのでこの攘夷論をめぐる学問上、政治上の抗争と、朝廷より水戸藩に下賜された戊午(ぼご)の密勅の取扱いや薩長との密約(薩長は建設・水戸藩は破壊)による行動等で対立、藩論が二分、三分し、悲劇の水戸藩朋党(天狗・諸生党)の乱を生むに至ったが、両派とも尊王敬幕の思想では一致していた。 この乱の被害は、栃木、千葉県迄及びさらに水戸藩士のほか婦女子、農民などまでまきこみ、二千数百名の尊い人材を維新の祭壇にさゝげつくした。 諸生党の係わる主な碑は、千葉、茨城、新潟にある。最期の地、千葉県八日市場の有志は、大正十五年四月弔魂碑を建立した。また新潟県西山町の有志は、諸生党などが戦死した灰爪の丘に平成元年十月北越戊辰の役戦没者供養碑を建てた。 なお、明治十七年諸生党の有志が、水戸市神應寺に記念碑(篆額は会津藩主・松平容保公の書)を建立したが、戦災で破損して拓本のみがある。 ここ祇園寺の諸生党殉難碑は昭和九年秋、二十二名の方々が建立、今年で六十周年となるのを機に、歴史に関心もつ有志が主体となり整備の上、諸霊を供養するものである。 平成六年七月吉日 来栖平造 撰文
恩光無邊碑の建立 昭和十年、翁は 『聖代の今日、天狗、諸生を論ずるの必要なし。既に勤王派のために忠魂塔建設を見たる以上、佐幕勤王派のためにも建設をなし其靈を慰むる要あり。斯くすれば、曾ては彼我主義のの相違により出發點を異にし、互に反目殺戮を敢てしたる殉難志士の英霊も笑つて地下に握手して既往を語り合ひ共に護國の途を歩むであらう。 要するに、兩派共その誠忠に至つては毫も異らざるものである故に、兩者の靈を併せ祀るは後人の爲すべき務である。』 との趣意を以て獨力資を投じ、水戸祇園寺境内に恩光無邊碑を建立せられた。 碑文左の如し。 (碑文省略) 昭和十一年九月二十三日、田中光顯翁は碑前第一回慰霊祭式典に参列された。 《田谷広吉、山野辺義智「室田義文翁譚」(1938)》より
…… 明治期のジャーナリストとして汎く世間から高く評価されていた朝比奈知泉は水戸は下市の根積町の生れ、一家は明治に入る以前に上市の西町に移った。彼の家は諸生派の幹部の朝比奈弥太郎の分家だったから禄高はあまり多くはなかったが、他の朝比奈家と一しよに処分されて絶家になった。明治二十二年の憲法発布の時に特赦にあって再興を許された。明治元年に天狗党の水戸政権によって処分をうけたときは知泉は七才になったばかりの少年であったため、生命だけは断たれないで、頭を丸めて坊主にするという条件で、朝比奈家の普提寺であった常磐村松本坪の祇園寺に預けられた。遊び仲間の子供たちが知泉に「あんたのうちはかんとうじゃね」というのを知泉はかんとう(奸党)という意味が解らないままに、子供たちからいわれると「そうじゃ」と平気で答えた。尋ねてる子供も勿論かんとうという意味が解っていない。親たちがいうからそのまま知泉に受け売りをするにすぎない。少年の知泉は祇園寺の住職、金牛和尚の恩遇をうけ、寺から遠くもない新屋敷(柳小路)の佐々木籌の家塾に通った。明治六年に新に上市の裡五軒町と新屋敷の松小路に小学校が設けられた。佐々木が新設の新荘小学校の教員となる。そこで知泉も佐々木の勤める小学校の生徒となった。当時開設の小学校に教鞭を採るようになったのは佐々木のほかに福田晉、丹誠、小松崎操、井出永時、鈴木覃などの水戸の士族である。佐々木はのちに開設の師範学校に転出した。 知泉は明治十二年に茨城師範学校に入学した。中学に入りたくも、当時では水戸には中学校がまだできていなかったからである。師範学校では松本直己、町田則文、大矢透、佐々木籌らが先生で、師範学校は一年ばかりで卒業した。卒業すると裡五軒町の小学校の教員になり、一年前後つとめただけで辞職した。 彼は十四年の二月、二十一才で東京に出て、郵便報知新聞(報知新聞)に勤めて記者生活をはじめた。かくして彼は後年、新聞界の元老、三宅雪嶺、陸羯南、徳富蘇峰の三人と並び称せられるほどの大物になってしまった。 ……(後略) 《山本秋広著『明治初期の茨城』(1967)》より