五町矢場遺跡碑

五町矢場遺跡碑
題額:徳川圀順、
撰文:小川速、
書:鈴木龍(1869~1945)、
造立時期:昭和十二年(1937)六月

〔副碑〕史跡神勢館五町矢場の由来
撰文:桜井秋雄(建碑委員会副会長・建碑委員長)、
造立時期:平成二年(1990)十月

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神勢館及び五町矢場は、徳川斉昭が嘉永6年(1853)水戸細谷に創設した砲術訓練場です。元治元年(1864)の水戸家内訌による激戦で兵火を受け、再建されることなく廃止されました。唯一の遺構であった高さ約27メートルの大垜(おおあずち)も、昭和25年(1950)に那珂川河川敷の堤防建設のために崩されました。副碑に刻まれている当時の絵図には
  ウシロ并両脇に松杉苗二千本余植立
との添え書きがありますので、末期の大垜は、例えば少し上流にある杉樹鬱蒼とした「愛宕山古墳」に似た風情があったかも知れません。
同遺跡は昭和9年に県の史跡に指定されており、現代であれば整備・保存という選択もあり得たでしょうが、戦後間も無い物資の乏しい時代であり、またアメリカ軍司令部の思惑もあってか、斉昭の創建(ペリー来航と同年)以来97年の間「鋤利の厄を免れ」ていた大垜が、俄に消滅の運命を辿ったことは、たいへん残念なことです。
碑銘
[題額]
 (引首印)
  練武
    涛山 (印二顆)

[碑陽南東向行三十八字]  
五町矢場遺跡碑   正三位勲二等公爵徳川圀順題額
源烈公夙に意を國防に用ゐ拮据經營餘力を遺さす殊に神勢館を城東細谷村に設けて銃砲の教練及製造の事に當らしめたる如きは其の最重きを措く所なり初め天保十二年弘道館を開設するや砲術を館内に講習せしむ然れとも大砲の演習は野外に行ふを以て運搬に時間と人力とを要し不便少からす即ち弘化四年に此に演習場を設けて一は其不便を除き一は那珂川に沿ひ水運の便あるを利用して東海の防禦に備へむとし計畫する所なり偶幕府の嫌疑を蒙り屏居せるを以て中止す越えて嘉永四年嫌疑稍解くるに及び復前緒を尋きて其の實行を謀り五年八月起工し六年十二月竣功す其の構造たる長五町幅三十間の左右に土壁を築く射垜高十五間幅四十間厚三十間なり世俗稱して五町矢場と曰ふ其の他一町場及小銃の射的場を設け又廰舎倉庫製薬所教師以下官舎等悉く備はる其の開館式を擧行したるは實に安政元年三月二十七日なり三年十月更に地域を擴張して神崎の制砲所を移し茲に本館の完成を告く斯くて公の創建せる神發流砲術は咸に此に練習せられ製砲の業亦發達して水藩の軍備愈整頓充實せり明治維新に際して館廢せられ其址竟に滄桑之變に遭ふ唯り射垜は幸に鋤利の厄を免れ昭和九年十二月茨城縣告示を以て史蹟五町矢場として指定せられ郷人等亦保存會を組織して之か保護に努む即ち知る雄勢巍然として長へに存し此に游ふ者當年練武の状を追想して義勇奉公の徳操を培養するを得む洵に名教の為に慶すへきなり今茲保存會碑を建て来由を勒し以て不朽に傳へむとす
余其の嘱に應し梗概を叙すと云爾     常磐神社宮司従六位勲八等小川速謹撰
  昭和十二年六月                従七位勲八等鈴木龍謹書(印二顆)


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[副碑]
史跡神勢館五町矢場の由来
水戸藩九代藩主斉昭(烈公)が、藩士の砲術訓練場としてこの細谷の地に、神勢館五町矢場を、嘉永五年(一八五二年)に着工、翌年十月に竣工した。矢場は神勢館より五町(約五百五十㍍)離れた場所に、高さ十五間(約二十七㍍)、幅四十間(約七十二㍍)、奥行三十間(約五十四㍍)ある大砲の的であった。
 その神勢館は、明治維新の戦乱の兵火に遭い、元治元年(一八六四年)八月に焼失し、再建されずに廃止された。幸い矢場は取り崩されずに残り、地域住民から「五町矢場」として親しまれ、昭和九年に県より史跡に指定された。城東、浜田、上大野をはじめ、三の丸や付属の学童は遠足に来て遊び廻り、矢場の上から筑波山や那珂川の流れを見たりした。
 しかし、昭和十三年から数度にわたって、那珂川が氾濫を繰返し、附近の住民に多大の被害を与えた。そのため国として那珂川に堤防をつくることを決め、「五町矢場」はその河川敷となり、昭和二十五年の秋に取崩され、堤防の土の一部となり、姿を消してしまった。借んでも余りあることである。
 このままでは「史跡神勢館・五町矢場」が誰の記憶からも消え去るため、有志が相寄り、相語って記念碑を建て、その史跡と経緯を碑文に刻み、既存の碑と併せ、末永く語り継がれることを計画したところ、水戸市当局の援助と、建設省の理解を得るとともに、多くの皆様の賛同と芳志をいただき、この事業の完成を見ることができました。
 記念碑落成式に当たり、水戸市当局や建設省ならびにご芳志をお寄せ下さった皆様に、謹んで謝意を表すると共に「史跡神勢館・五町矢場」が長く伝承されることを祈念します。
平成二年(一九九〇年)十月吉日
        史跡神勢館・五町矢場建碑委員会
                    会長 和知 忠雄






昭和40年代刊行の地図に、高さ十五間(27m)あったという射垜の等高線が消されずに残っていました。(赤矢印)

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